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2010年6月11日の
日経新聞の経済教室・
山崎正和氏の「指導者は難題と向き合え」に今の政治・世論に対する鋭い指摘があったので、メモします(本文から引用)。
(前略)
「じっさい民主党の政権公約は極端な変革を羅列していて、この党は政権交代というより革命をめざしているのではないかと思わせた。」
(中略)
「蓋(ふた)を開けてみれば、
高校無償化を除いて、どの公約も見合わせか中途半端な実現に終わった。反面、財源については、鳴り物入りの
事業仕分けで3兆円の節約を目指しながら、7千億円の縮減しかできなかった。今年度の一般会計総額は過去最大の92兆円にのぼり、膨大な国債が後世に残った。
私は民主党が嘘をついたことを責めているのではない。プロの政治家がこの程度の現実認識も見通しもなく、公約をつくったことに呆(あき)れているのである。」
(中略)
「何より気がかりなのは、これらの公約が目先の変革にのみ重点を置き、永続的な国益や目標を無視していることである。
高速道路無料化や
ガソリン税の暫定税率廃止は、温暖化ガスの削減という長期目標と矛盾しないのか。
農家の所得補償は日本の農業の近代化、生産性向上の積年の努力を妨げるものではないのか。素人でもわかる長期的な視点の欠如、国策の連続性への関心の鈍さが異様なのである。」
(中略)
「注目に値するのは、なぜ民主党が革命にも似た変革を掲げ、国民も雪崩を打ってそれを支持したかという疑問である。国民の変化への要求はこのところ性急さを増し、内閣支持率は激しく上下動を繰り返して、そのたびに短命政権がうまれては消えた。政党を問わず指導者は小粒になったように見え、選挙民はこらえ性がなくなった気がする。これはいったい、文明と社会のどのような問題の反映なのだろうか。
まずいえることは、現代日本の真の課題が深刻なものばかりとなり、経済の成熟、少子高齢化、環境破壊、技術開発の停滞など、時間のかかる困難が急増した点がある。グローバル化の下で政府のできることは小さくなる一方なのに、うすうすそれを感じる国民はいらだちを強め、せめて見かけ上の変革を性急に求める方向に走った。
同時に、長く続いた冷戦が終わったことによって、個人の政治的アイデンティティー、心のよりどころとしての政治的立場が揺らぎ始めた。社会主義陣営の完敗は左翼的な国民を路頭に迷わせ、いわゆる自由主義陣営の国民も敵を失って互いに分裂することになった。民主党の成り立ち自体がこの現象を象徴していて、ここには旧
社会党左派とかつての自民党のもっとも旧弊な指導者が同居している。
第三に、都市化の進行が人びとから故郷や近隣社会を奪い、よかれあしかれ多数の国民を孤独な群衆にした。とくに日本では、グローバル化が企業の枠組みを弱くして、企業という伝統的な帰属感の対象が動揺したことが大きい。典型的な大衆(マス)社会に投げだされた日本人は、信頼できる顔の見える隣人を失い、流行とか世間の空気といった目に見えない趨勢(すうせい)に流されやすくなった。
これに加えて第四には情報化が深まり、たとえば内閣支持率は毎月のように耳にはいるようになった。またインターネットという新しい情報手段は、無著名の世論を無責任に氾濫(はんらん)させる。これにたいして他人思考となった大衆が抵抗できるはずはなく、いわゆる過剰適合という現象を起こし、生まれかけた世論を一段と増殖させる。
この大衆社会に対して、まさに同じ理由から社会的な指導者も現れにくくなった。
(中略)
政治家の場合はたぶん
小選挙区制の導入もあって、地元有権者の利害と意向に縛られる度合いが増したという事情もあろう。庶民の声を聴くのはよいことだが、「どぶ板政治」がすべてになり、政治家の視野が狭くなるのは危険である。かつて佐藤、福田、大平、中曽根内閣などの時代には、党や派閥が学者、ジャーナリスト、官僚などを招いて、私的、公的な研究会を開いていた。これが政治家の視野を広げ、政策を多角化して、大宰相を生む一助になっていたことを忘れてはなるまい。
こうした社会状況の下で起こりがちなのは「ポピュリズム(「扇情政治」だが、現代の日本には雄弁な扇動家は現れにくいから、ここに「リーダーなきポピュリズム」ともよぶべき珍現象が見られることになる。思えば戦前の軍国主義にもその気味はあったが、近年では
小泉純一郎首相の「
郵政改革」と、民主党の「政権交代」選挙がその好例だろう。どの場合も、リーダーに雄弁もカリスマ性もなく、ただ国民が戦うべき敵だけが名指しされた。前者では「抵抗勢力」、後者では「官僚」である。
ポピュリズムは憎悪の政治であり、民心を燃え上がらせる敵が不可欠となる。その敵にふさわしいのは、大衆の上にあり、指導者と大衆のあいだにあって壁となる存在である。
ヒトラーも
スターリンも
毛沢東も、ナンバー2にあたる人物や階層を粛清することで、自分と大衆の親密を誇示しようとした。逆にいえばこの敵さえ明快なら、凡庸な指導者もポピュリズムをあおることができるのである。
民主政治の宿命的な難しさは、たゆみない改革と安定した連続性との均衡を計ることだろう。「民心を倦(う)ましめない」こと」と、長期的な課題に落ち着いて取り組むことの両立を目指すことである。その意味で政権交代があるのはよいことだが、その分だけ政治の連続性を担保する強い仕組みが必要になる。
(中略)
だが結局、民主主義とは言葉による政治なのである。そして政治の言葉は、抽象的な理念と具体的な政策の組み合わせでなければならない。次の参院選挙では各党は党外の知恵も借りて政策の言葉に心を砕き、国民もそれを理性的に読み解く冷静さが求められよう。」
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